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お好み焼店を「カッコよく」した革命児出店は一等地に限定、高級ブランドを確立 / 注目ベンチャーインタビュー前編千房ホールディングス株式会社
代表取締役 中井政嗣

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大阪のソウルフードとも言える「お好み焼」。そのお好み焼を「庶民の味」から「高級店の味」に変身させ、今や日本全国のみならず、海外にも発信しているのが千房ホールディングスだ。

大阪をはじめ、東京などの主要都市に64店舗のお好み焼店を展開、ハワイ、ベトナム、タイ、フィリピンにも出店している。

創業者である中井政嗣社長が、大阪の難波・千日前に「千房」の第1号店をオープンしたのは今から45年前、1973年のことだった。ちなみに、店舗名の千房とは、豊臣秀吉の馬印「千成瓢箪」にあやかったもので、「お好み焼で天下を獲る」という願いが込められている。

中井社長は奈良県葛城市出身で、中学卒業後に尼崎の乾物店に就職したものの、子どもの頃から料理の道に憧れていたため、その後、義兄が営んでいたレストランに入り、料理人として修行に励んでいた。ところが、義兄からの「半強制的な」勧めで、ある老夫婦がやっているお好み焼店を引き継ぐことになったのだ。

「洋食のコックを目指していたので、内心ではイヤイヤでしたね。お好み焼を食べるのは好きだったんですが、商売にはしたくなかった。だって、スカーフ巻いてカッコよくしているコック姿に憧れていた。お好み焼屋を経営している自分ですら恥ずかしいと思うのだから、そこで働くスタッフはもっと恥ずかしいだろう。スタッフを募集してもなかなか人が集まらない。そこで新しい店を思いっ切りカッコよくしようとしたのです。

お好み焼の革命児としての中井社長の歩みは、そこからスタートした。

中井社長が力を入れたのは、今で言うところの「ブランディング」だ。

まず食材にとことんこだわり、味を追求した。肉や魚介類、野菜、小麦に至るまで、原料はすべて国産を使用。お好み焼店としては、初の試みだったという。その代わり、ほかのお好み焼店より「高級お好み焼」という新しいジャンルを確立した。「うちの店は原価も高いんです。仕入先には値引きをお願いしないポリシーだからです。いい料理を出し続けるには、仕入先との息の長いパートナーシップが欠かせませんからね」(中井社長)。

店舗の内装にも手をかけ、スタッフの制服までスタイリッシュにした。「飲食店は、一般に2~3年で償却することを前提にしているので、店舗にあまりお金をかけないんですが、千房は違います。30坪の店でも最低5000万円の出店コストをかけています。ただし、10年続けるつもりで店を出します」と、中井社長は明かす。

「出店する場所も、一等地と決めていました。第1号店を難波・千日前に出したのも、大阪屈指の繁華街だったから。一等地の店なら、お好み焼のイメージアップには持ってこいでしょう。スタッフも集めやすいですしね。それに、確かに家賃は高いんですが、大勢の人の目に止まる場所で、千房の看板を掲げられるというメリットもあります。看板広告の料金も込みなら、安いもんだと考えたわけです」

東京に進出した際も、渋谷、六本木、恵比寿、池袋、銀座、有楽町と、全国にも知られているような繁華街に限定して、店舗を開設していった。一方で、仙台、広島、福岡といった全国の主要都市にも、集中的に出店していった。千房の知名度を上げ、ブランドを定着させる狙いがあったことは言うまでもない。「お好み焼屋で、百貨店や高級シティホテルに出店したのも、うちの店が初めてです」(中井社長)。

百貨店やホテルへの出店、オール国産の原料といった具合に、千房には「初物」が多い。例えば、前菜からデザートまで提供するお好み焼のフルコースを初めて提供したのも千房、お好み焼で機内食として初めて採用されたのも千房、お好み焼を冷凍食品として初めて市販したのも千房だ。これらの事実は、千房がお好み焼の歴史を塗り替えてきたフロントランナーであることを、明瞭に物語っている。

インタビュアー

株式会社KSG
眞藤 健一