岡本社長は1993年にジェイコムHDの前身となる、パッケージ旅行の企画事業会社のパワーズインターナショナルを大阪で旗揚げした直後、あるトラブルに巻き込まれてしまう。すぐに資本金は底をつき、自分の給料はもちろんのこと、独立についてきてくれた仲間6人の給与を支払うこともままならなくなった。そして、岡本社長が窮状を正直に話し、給与のカットを申し出ると、「当初の約束と違う」といい残して4人が辞めていった。
「共同経営者のつもりでいたのですが、根本のところでマインドがズレていたのかもしれません。経営を立て直すべく奮闘しているなか、知り合いの同業の社長さんから、『会社を閉めてウチに来たらいいじゃないか。仕事と責任に見合った給与を支払うよ』といわれ、悩んだこともありました。結果、経営を持ち直すことができて、いまがあるわけですが、そこで学んだことは『とにかく諦めない』ということです。何か失敗があっても、『ピンチはチャンス』くらいにポジティブな姿勢を保ち続けることが重要なのです。それができれば、必ずどこかで事態は打開します」
岡本社長の言葉は、事業がうまく軌道に乗らずに悩んでいる起業家にとって何よりも心強いはず。その岡本社長は関西学院大学に通う頃から「人生は一度切り。何かを残す仕事をしたい」と考えていたそうだ。大学卒業後は地元の広島銀行に入行し、渉外担当として多くの中小企業を回った。それも経営を勉強するためであり、3年後には辞めて、学生時代から付き合いのあったベンチャーの旅行会社に転職。そして、同社での経験を活かして、パワーズインターナショナルを設立したのだ。
そして、岡本社長が96年の携帯電話の販売、98年の人材サービスへと進路を切り直すきっかけとなったのが、様々な人との〝縁〟だった。ある日、旅行の企画で付き合いのあった大手航空会社の大阪支店長にゴルフに誘われて行くと、同じパーティーにいたのが支店長の同級生だという大手通信会社の幹部だった。プレイしているなかで岡本社長は、当時普及し始めたPHS(簡易型携帯電話)の大阪での拡販を手伝ってほしいとの申し出を受ける。
「その少し前に大阪で開かれたインターネットのデモンストレーションを見る機会がありました。そして、いろいろな情報をアップしたり、そこに誰でもアクセスできるのを知り、いつか旅行事業にもネットの時代が来て、パンフレットを刷って集客するような業態のままでは淘汰されると感じていました。PHSを仕入れではなく、預託の形で卸してもいいとの好条件もあり、将来の携帯電話の販売も見越して業態を転換することを決断しました。また、それを機に同じ年の11月にジェイコムへ社名変更も行なったのです」
新しい事業は順調なスタートを切ったものの、急成長分野であることに目を付けた電機メーカーや商社が、資本力を活かして携帯電話の販売ショップを相次いで出店するようになる。大阪市内の一等地はそうした大企業の系列ショップに押さえられ、岡本社長は苦戦を強いられてしまう。そうしたなか、敵情視察でライバル店を覗きにいくと、接客の対応やマナーがあまりにも悪いことに驚く。そこで「うちの従業員だったらもっと売れるのに」と思い浮かんだことが、次なるビジネスのシーズとなったのだから面白い。
岡本社長は知り合いの携帯電話の販売会社の幹部に、「当社の従業員に一度販売を任せてほしい。それで成果が出たら、派遣社員として受け入れてもらえないだろうか」と提案し、了承を得る。実際にショップに入って販売を始めると、前月比30%増、50%増という見事な成果を叩き出した。それからは、口コミで「ウチも頼みたい」というオファーが携帯電話の販社から殺到し、採用した人材を独自に教育しては派遣し、名古屋や広島にも拠点を構えるようになった。まさしく岡本社長は「ピンチはチャンス」を証明してみせたのだ。