1996年設立の同社は2期目までは毎月2000万円の赤字が続き、この時点で清算される可能性もあった。「新事業は2年以内に単月黒字にする」という親会社パソナの社内ルールに直面していたのだ。累積損失も2年間で5億円近くに膨らみ、パソナでは「清算すべきである」との意見が有力になっていたという。
白石氏はこの難局をどう乗り切ったのだろうか。
当時はITバブルの勃興期で銀行融資が緩くなっていたため、融資で凌ぐ手段もあったが、白石氏は損益分岐点の引き下げに着手した。2年期目の上半期を終えた頃、パソナからの出向・派遣社員には復職してもらい、契約社員には事情を説明して退職してもらって、24人の社員を8人に削減したのである。
その結果、2期目の終盤には単月黒字に転じ、以降は福利厚生業務のアウトソーシングというストック型ビジネスの利点も活かし、リーマンショックで売上高が鈍化した時期を除けば、ほぼ順調に地歩を固めてきた。
白石氏はこのときに得た教訓を堅持しつづけている。
「安易に社員を増やしてはならないことを学び、これは今でも生きている。設立した子会社が黒字化しないと、現場から『人が足らないから採用したい』と申し出てくる場合もあるが、絶対に認めない。『赤字なのに損益分岐点を引き上げてどうするんだ?』と」。
しかし、早期の黒字化というベンチャー創業期の命題を乗り越えた同社も、債務超過という重荷を背負ったままだった。債務超過では事業に必要な資格免許を取得できない。そこで増資によって解消しようと検討し始めた矢先に、ベンチャーキャピタルが訪問してきた。VCは単月黒字の継続に着目したのだ。
増資は実行され、白石氏が「漠然と考えていた」という株式上場計画も具体化し、2004年にJASDAQへの上場を果たす。2年後には東証2部に昇格した。白石氏は「上場をゴールのように考える経営者もいるが、上場は次のステージに向かうスタートライン」と語るが、実際、同社は次のステージに向かった。JASDAQ上場以降、10の新規事業を立ち上げて9事業が軌道に乗り、この9事業が現在では営業利益の40%を占めている。
9つとも本業の周辺領域を事業化したのだが、それにしても成功率90%は凄い。その秘訣は責任者の選定にある。事業の成否は何をやったかではなく、誰がやったかで決まる。これが白石氏の持論である。
取材・文/経済ジャーナリスト 小野貴史